こんな世の中だから、もっと無責任に、無計画に。

もうすでに年があけて半月ばかりですね。

遅ればせながら、あけましておめでとうございます。

 

さて、新年一発目の投稿は、最近読んだ本をもとにお話ししようと思います。

 

わたしは旅行が好きで、しかもひとりでふらっと行くのが好きです。

たいして下調べもせず、なんの気兼ねもせず、ただ気ままに過ごす旅はなお良い。

その場の即興にゆだねる旅。

 

わたしにとって海外旅行とは、自分の枠や世界観を押し広げるって意味合いがあって、

だから定期的に自分を外へ移動させるんだ、というようなことを友人にいったら、

この本も似たようなこと言ってる、と教えてくれました。

  

 

 

異なる思考回路を手に入れるため意図的に環境を変えよう 

この本で言っているのは、こんなことです。

 

FacebookTwitterなどのSNSやネットの世界は、

いろんな可能性を広げてくれそうに見えて、実はそうではない。

属するコミュニティーの壁を強くし、統計や計画性で固定化された世界。

なにか情報を得ようと自分がネットで検索するワードじたいが、

すでに予測検索エンジンによって先回りして操作されている。

そもそも、本人は自分の意志と思っているものが実は社会的属性や環境に

よって枠づけられており、ネットの予測検索エンジンもその統計に基づいて

設計されている。

だから検索する情報も予測可能で想定内の範疇からはみ出ない。

 

その枠組みを外すのが、むしろリアルの人間関係。

ここでいうリアルというのは、普段所属する世界におけるリアルではなく、

偶然の産物がもたらすリアルさをいいます。予測不可能さ。

 

その偶然性に出会うには、いまいる場所から身体を移動しないとなしえない。

単純に場所(環境)を移すことで、異なる思考回路を手に入れよう。

場所を変えたことでわきあがる本能的な衝動によって、検索するワードを変えよう。

 

言いかえると、いまいる計算されきった世界に抗い自由になるには、

自分の肌感覚を信じよう、とも言えます。

狭い空間で手に入れる情報ではなく、身体感覚を!

 

偶然性を生むための、軽薄さと無責任さ

この本では、ひとつのコミュニティに居続ける住人を村人、

コミュニティーを渡り歩く人(バックパッカーのように)を旅人とし、

第三の立場としての観光客を提唱しています。

観光客は、村人の性質も旅人の性質もはらんでいます。

両者の性質を状況に応じて行き来しているのが観光客。

逆に、村人にはない観光客の性質として、軽薄さと無責任さがあります。

観光ツアーを考えてもわかるとおり、その土地のうわっつらをなぞるだけ。

その土地に深く入りこめない。

 

でも、うわっつらをなぞることで得た新鮮な衝動やわきあがる感情によって、

人は新しい可能性を広げていく。

そこに至るには、ある種の軽さをまとっていないとたどりつけないのです。

村人の感覚からすると、眉をひそめられたとしても。

 

 スキがある人

わたしには、職場でもない、学生からのつきあいでもない、古い友人がいます。

かれこれ10年近くのつきあいですが、出会ったきっかけはたまたま同じタイミングで

同じ飲み屋で飲んでたってだけでした。

見事なまでに偶然性のたまもの!

 

で、その友人と5年ぶりに再会して、おたがい共感したのが次の話でした。

 

「この人は人格者だ、尊敬できるという人には、なぜだかスキがある」

 

スキがあるというのは、軽さをまとっていないと体現できません。

そして、そういう人には独特の色気があります。

この人のそばにいると、なんか楽しい。幸せだ、と感じさせるなにか。

だからこそ、人望を集めるのだと思います。

 

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軽薄でいる、無責任でいる、というと、ここ日本では眉をしかめられます。

それから、計画性をもって行動する、ということがもてはやされます。

確かに、それでうまくいくこともいっぱいあるし、それ自体を否定はしません。

だけど、リスクヘッジをし、統計的な正しさだけをなぞって最適化をめざす人生だけが、豊かなのだろうか。

ときには偶然性に身をゆだねて、責任と無責任の世界を、重さと軽さの世界を行き来するのが、したたかな戦略なんでないか。

人生が動くときというのは、軽さをまとった時なんではないか。

 

年初は、一年のいろいろな計画をする時期だからこそ、

あえてこんな記事をあげてみました。

 

ではでは。