レポートラインを2つすっ飛ばして部長とガチ対話した話②

2か月で5人退職、1人メンタルで休職という状態で、雰囲気がめちゃくそ悪い職場。前回は、上司の言動が、雰囲気を悪くさせてる大きな要因になってることを書きました。

今回は事態打開のための手がかりをつかむ!

続きを読む

想いを言葉にのせる大切さ

下書きに残っていた3年前の記事。

きのう起きた出来事でダメージをくらってたけど、過去の自分の記事に勇気をもらう。

いまも昔も大切にしたいことは変わらなくって、フィールドを変え広い舞台に出ても、やってることは同じだな。

一人ひとりの声と会社の方向性をつなげることで、組織人としての働きがいを実感したい。そしてみんなにも働きがいを感じながら過ごしてほしい。

いま、そこにダイレクトに関われるおいしいポジションにいるんだと、自分のマインドセットの意味もこめて、投稿を世に出しましょう。

 

それでは3年前に書いた、前部署での体験記へ。

 

続きを読む

レポートラインを2つすっ飛ばして部長とガチ対話した話①

2年ぶりの投稿。2年の間にコロナが押し寄せてきて世界は様変わりしたけど、わたしはコロナ前とおおむね変わらず働いています。

でも行動範囲が限定され、つきあう人間も厳選され、消費行動も厳選され、、とやっぱり生活スタイルは変わったかな。より大事にしたいものに収れんされてきているような。

だけど、やっぱり会社や仕事にまつわる話は大きく変わることなく、むしろ働く環境は前より悪化している。

 

3年前に異動してきた職場では、退職者があいつぎ、雰囲気がめちゃくちゃ暗い。

駆け込み寺的に参加した対話コミュニティーにヒントを得て、雰囲気悪すぎブラック企業で働くイチ社員として思いを率直に伝え、意見交換しようと、部長にガチ対話を申し込みました。

 

たぶん3回くらい分けて書きます。

続きを読む

間違ったって、失敗したって、消えやしない

 

4月に職場が変わってからてんてこまい。

また、5月末から9月末まで通っていたマネジメントスクールの勉強にもてんてこまい。

 

最近ちょっとずつ余力が出てきて、

先月末に、やっと「天気の子」を見てみました。


すごくいまの時代を映したストーリーだな、というのが感想です。

 

www.tenkinoko.com

 

何が正しいかという客観的な指標が失われているなか、

どうせなにをやっても正解かわからないし、

どうせ失敗するんだったら、

個人の主観とか思いをよりどころにして、思い切って次の一歩を踏み出していこう。

  

たとえ失敗したって、それが思い残すことなく生きる秘訣。

 

だから、「正義」の名のもとにおいて、だれかの犠牲に基づく世界を築くの、もうやめにしませんか。

 

わたしはそういうストーリーと解釈しました。

 

異動してきて半年たちましたが、

いまだに挙動不審ぎみでオロオロしている自分には、すごく勇気になりました。

 

完璧主義な傾向のわたしが、

慣れない仕事に、間違わないかヒヤヒヤする毎日って不安でしかないけれど、

 

いろいろ葛藤しながら、

最終的に「もぉぉぉお!いいやダメでも!」と

いつしか開き直ってカラ元気でふるまうことに決めて。

 

不思議なことに、

オロオロする自分も、いろいろ失敗する自分も、

まーいっかーと受け止め、

とりあえず笑っとこう(というか、てへっと笑ってごまかすしかない)

と過ごしていると、

 

前ほど「成長」とか「進化」とかってことにこだわりがなくなってきたんですよね。

 

別に投げやりになっているわけではなく。

 

言い尽くされている表現だけど、

 

揺らぎながら、行きつ戻りつしながらも、

いま「この瞬間」を楽しんで生きられれば、

もうそれだけでいいんじゃないかと。

 

 

それでもやっぱり揺らいでいるときは心細い。

そのときに力になるのは、人との対話。

 

言葉というのは、時間を超えて残り、宿るもの。

 

昔の恩師やかつて一緒に働いたパートさんと交わした言葉が、

そのときはよくわからなかったけど、いまになって蘇り、灯をともす。

 

じんわりと、あのときのあの言葉はこのことかー。

ありがたいなー、恵まれてるなー、などと思うと、

 

それだけでじんわりと温かさに心が満たされ、

成長のスピードなんかどうでもよくなる。

 

 

「天気の子」主人公の帆高が、終盤で言っていた

「もう大丈夫だ」というセリフは、

なんかそういうことのような気がします。

 

当たり前の日常の温かさに包まれた日々を送っていたら、

間違ったって、失敗したって、

あなたは消えやしないし、あなたの魅力はそのまま残る。 

 

そう、だから大丈夫なんです。

 

 

 

 

「選べる」人間としての使命

こんばんは。

少し前のことですが、上野千鶴子さんの東大入学式の祝辞が話題になりましたね。

ピリリとした辛口さの中に新入生を迎える温かさも含んでいて、素晴らしい祝辞だと感じました。

 

「がんばったら報われるとあなたがたが思えていることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったことを忘れないで」

 

「あなたたちのがんばりを、自分たちのためだけに使わないで」

 

そのうえで、多様性と可能性に満ちた学び場である東京大学へようこそ、

と締めくくります。

 

上野さんの祝辞はこちら。

 

www.u-tokyo.ac.jp

 

実はわたしもこの4月の人事異動で所属部署が変わり、異動にあたって僭越ながら上野さんと同じことを考えていました。

 

自分がいかに恵まれた環境にいるのか。

そして、みんながわたしと同じ環境には立てないこと。

だからこそ、自分にしかできない使命があるということを。

  

 

わたしの場合、社内公募に合格して人事異動となりました。

正直なところ、前の職場では上司からも部下からも頼られていたのは感じていました。

その職場でもじゅうぶん活躍の場があり、周囲もわたしの存在を望んでいました。

実際、大変ありがたいことですが、異動が発表されてから多くの方から惜しむ声をかけていただきました。

 

それでもわたしは出ることを選びました。

評価よりも自分の成長ややりがいを選んだのです。

 

でもこうして選んでいけることを当たり前と思ってはいけない。

自分の成長ややりがいを、自分のエネルギーの糧とすることも当たり前ではない。

 

選べる選択肢があること。

成長ややりがいを原動力とできること。

それ自体わたしは恵まれた人間だと思うのです。

 

なにに恵まれているかというと。

 

選べるカードを手にしていること。

カードを選べる場所に身を置けていること。

その場所を嗅ぎわける自分の向上心と嗅覚。

それを培ってくれた教育。

その教育を受けさせてくれた家庭環境。

さらには親自身の考え方や価値観。

 

元をたどれば、自分のパーソナリティと思えるものも、育ちや環境によって育まれている部分が大きいと思っています。

 

育ちは選べません。

だから恵まれているのです。

文字通り「有り難い」ことなのです。

 

かたや、それが「あり得ない」人もいる。

そういった持てない人や頑張れない人たちを蔑んだり切り捨てないことは当然として、そういった人たちの役に立つこと。

自分の持っている恩恵を彼らにも還元すること。

 

それが持てるものとしての使命。

 

これはけっして上から目線ということでなく、恩恵を循環させるということにつながるのです。

 

それを忘れないためには、

自分を育み置かれた環境を認めて感謝する

と同時に「有り得ない」人たちの存在を心に留めておく。

 

これは自分への戒めとしてもずっと心に刻み続けよう!

という決意でもって締めくくります。

 

終わり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

効率化って、なんのため?

こんにちは。

 

最近は、働く場面に限らず、育児や家事においても「時短」とか「効率化」がもてはやされていますよね。

 

ここで、みなさんにお伺いします。

あなたにとって、効率化はなんのために行っていますか?

効率化は〇〇するため?

 

続きを読む

【雑記】人とわかりあうって、なんだろう?

こんにちは。

きょうは多くの人が悩む、人とのかかわり合いについてお話ししようと思います。


恋人や夫婦とのちょっとした行き違い、ぎこちない親子の会話、面倒な上司とのコミュニケーション…

ささいな日常のなかに、なんとわかりあえなさが潜んでいることでしょう。



「あの人ともっとわかりあえたらいいのに」とか、

さらに優しい人なら
「あの人のことを、もっとわかってあげたい」とか、

嘆いたり願ったりすることもあるかもしれません。



でもね、最近わたしはこんなふうに思うのです。

「わかりあうって、なんだろう」
「わかりあうことって、いいことなの?」と。



これは先日、所属するカウンセリング団体の方々とお話していた内容です。


カウンセリングにおいて、目の前の人を「理解したい」と思う時点ですでに力みがある。

「理解したい」と思う裏側で、この人はこんな人?と当てにいってるのなら、
それは自分が早く了解したいだけだったり、自分が早く安心したいだけ。

なぜならよくわからない状態がイヤだから。

それはもはや、カウンセラー側の我欲であり傲慢にすぎない、と。


これって案外、日常でも応用がきくのかもしれない。
ふと帰り道に会話の内容を反芻しながら、そう思ったのです。


つまり、
「わかりあう」に期待しすぎない
ってこと。


わかりあう、という言葉に、お互いが溶けあい染まりあうイメージを持つのならなおのこと。


人とはわかりあえないもの。
だから全部をわかろうとしない。
全部をわかってくれなくていい。


そのほうが、
染まることなくいられる相手を、
そのままの自分を、大事にできる。


f:id:goldsword:20190308003501j:plain



「人とはわかりあえない」
という前提にたったほうが、
おたがいノンストレスで寛容になれる気がするのですが、いかがでしょうか。