「選べる」人間としての使命
こんばんは。
少し前のことですが、上野千鶴子さんの東大入学式の祝辞が話題になりましたね。
ピリリとした辛口さの中に新入生を迎える温かさも含んでいて、素晴らしい祝辞だと感じました。
「がんばったら報われるとあなたがたが思えていることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったことを忘れないで」
「あなたたちのがんばりを、自分たちのためだけに使わないで」
そのうえで、多様性と可能性に満ちた学び場である東京大学へようこそ、
と締めくくります。
上野さんの祝辞はこちら。
実はわたしもこの4月の人事異動で所属部署が変わり、異動にあたって僭越ながら上野さんと同じことを考えていました。
自分がいかに恵まれた環境にいるのか。
そして、みんながわたしと同じ環境には立てないこと。
だからこそ、自分にしかできない使命があるということを。
わたしの場合、社内公募に合格して人事異動となりました。
正直なところ、前の職場では上司からも部下からも頼られていたのは感じていました。
その職場でもじゅうぶん活躍の場があり、周囲もわたしの存在を望んでいました。
実際、大変ありがたいことですが、異動が発表されてから多くの方から惜しむ声をかけていただきました。
それでもわたしは出ることを選びました。
評価よりも自分の成長ややりがいを選んだのです。
でもこうして選んでいけることを当たり前と思ってはいけない。
自分の成長ややりがいを、自分のエネルギーの糧とすることも当たり前ではない。
選べる選択肢があること。
成長ややりがいを原動力とできること。
それ自体わたしは恵まれた人間だと思うのです。
なにに恵まれているかというと。
選べるカードを手にしていること。
カードを選べる場所に身を置けていること。
その場所を嗅ぎわける自分の向上心と嗅覚。
それを培ってくれた教育。
その教育を受けさせてくれた家庭環境。
さらには親自身の考え方や価値観。
元をたどれば、自分のパーソナリティと思えるものも、育ちや環境によって育まれている部分が大きいと思っています。
育ちは選べません。
だから恵まれているのです。
文字通り「有り難い」ことなのです。
かたや、それが「あり得ない」人もいる。
そういった持てない人や頑張れない人たちを蔑んだり切り捨てないことは当然として、そういった人たちの役に立つこと。
自分の持っている恩恵を彼らにも還元すること。
それが持てるものとしての使命。
これはけっして上から目線ということでなく、恩恵を循環させるということにつながるのです。
それを忘れないためには、
自分を育み置かれた環境を認めて感謝する。
と同時に「有り得ない」人たちの存在を心に留めておく。
これは自分への戒めとしてもずっと心に刻み続けよう!
という決意でもって締めくくります。
終わり。